沖縄戦の経過について

はじめに

沖縄は今でこそ、南国気分を味わえる海でのシュノーケリングやダイビング、独特の琉球文化など、修学旅行や観光の人気スポットとなっていますが、第二次世界大戦末期の1945年、太平洋戦線での日米間最後の大規模戦闘、かつ国内最大規模の地上戦となった沖縄戦があったことも忘れてはなりません。

このページは、アメリカの『GlobalSecurity.org』というサイトにある、沖縄戦の経過や死傷者数などについて記述したページ、 『Battle of Okinawa』を日本語に訳したものです。 アメリカ側の見方に少しでも触れられればよいと思って作りました。

沖縄戦

 沖縄戦は太平洋戦線で最大規模の上陸作戦であり、太平洋戦争における最後の主要な軍事行動であった。 多くの船が使われ、多くの兵士が上陸し、多くの物資が輸送され、多くの爆弾が落とされた。そして太平洋での他のいかなる作戦よりも多くの艦砲射撃が陸の目標に対して行われた。沖縄戦の間に、広島と長崎の原爆投下の間に殺されたすべての人より多くの人が死んだ。3万8000人のアメリカ兵が負傷し、1万2000人が死亡、10万7000人以上の日本および沖縄の徴集兵が死亡し、10万人の沖縄の民間人が殺された。

 沖縄戦は太平洋戦争中で最も血みどろの戦いとなった。連合軍の艦船34隻が沈められ、そのほとんどが神風特攻によるものだった。また、368隻の艦船が破損した。艦隊は763機の航空機を失った。 この作戦におけるアメリカ兵の総死傷者数は1万2000人に達し(海軍の死者5000人、海兵隊と陸軍の死者8000人)、3万6000人が負傷した。また、海軍の死傷者数は物凄かった。1人に負傷者に対して5人の死者という海兵隊の比率に対して、海軍は1人の負傷者に対して1人の死者という比率だった。

 戦闘によるストレスもまた、多くの精神的な死傷者、つまり前線兵力のひどい損失を引き起こした。また2万6000人以上の非戦闘員が死傷した。沖縄戦では、戦闘での負傷による損失の割合として表される、戦闘によるストレスによって生まれた損害の値は48%であった(朝鮮戦争では20~25%、ヨム・キプル戦争では約30%)。沖縄戦におけるアメリカ軍の損失があまりにひどかったため、米議会は軍の指揮官の行いに対する調査を求めたぐらいだった。人命、時間、物資の点から、沖縄戦のコストが、日本に対して原子爆弾を使用するという6週間後の決定に大きく関わったが、これはもっともなことである。

 日本側の人員の損失は莫大だった:10万7539人の兵士が死亡し、2万3764人が洞窟の中に閉じ込められたか、または日本兵によって殺された。1万755人が捕虜となったか、降伏した。日本軍は7,830機の航空機と16隻の戦闘艦を失った。 沖縄の住民の多くが洞窟に逃げてその後死亡したので、民間人の死傷者の正確な数はおそらく決してわからないが、低く見積っても4万2000人が殺された。民間人のほとんど3分の1が沖縄戦で死亡したという推計もあるが、民間人の10分の1から4分の1が死亡した。作戦の計画段階における米軍の記録によると、沖縄にはおよそ30万人の民間人が住んでいると推定されていた。そして戦闘終了時にはおよそ19万6000人の民間人が残っていた。しかし、米軍は、82日間の軍事作戦で、艦砲射撃、空襲、および日本軍によって強制的に動員されて死傷した人々を含み全体で14万2058人の民間人が死傷した、と結論付けた。

 1945年4月までには、ヨーロッパ戦線におけるドイツの抵抗は崩壊寸前だったが、大日本帝国は、アメリカの優位に対して太平洋で挑戦的に抵抗し続けた。日本のおよそ400マイル南に位置している沖縄は戦略上、日本の海上補給路を断ち、南方の貴重な資源の産地から隔離することを連合軍に可能にさせた。もし日本本土への進攻が必要であると判明したなら、上陸作戦に必要な船、軍、航空機、および物資を供給するのに沖縄の港や空港を使用することができた。沖縄はいくつかの日本の空軍基地と、2つの堅固な港を台湾と九州の間に持っていただけだった。

 1930年代の中国での戦争の勃発は初めのうち、日本の九州から台湾へと南西に連なる琉球諸島の住民にほとんど影響を与えなかった。およそ480平方マイルの面積と50万人程の人口にもかかわらず、沖縄には余剰食糧も日本の努力を支える産業もなかった。また沖縄の港湾施設は大型軍艦には不適当だった。戦争に対する島の主な貢献は、魚雷とエンジンのための準アルコールに変換することができるサトウキビ産業だった。

 アジア太平洋戦争の初期から、沖縄は空軍基地のとして、また日本本土の防衛における最前線として強化された。土地と農場は沖縄中で強制的に収用され、日本軍は空軍基地の工事を始めた。

 1944年の10月下旬までには、琉球諸島の一つである沖縄は、連合軍によって進攻の対象とされた。「アイスバーグ作戦」とコードネームを付けられたこの進攻では今までで最も大規模な海軍の艦隊の集合を見ることになった。レイモンドA.スプルーアンス提督の5番目の船隊は40隻以上の航空母艦、18隻の戦艦、200隻の駆逐艦、および何百隻ものさまざまなサポート船を含むことになっていた。 およそ1300隻の米艦隊が島を囲み、そのうち、365隻は上陸艇だった。18万2000人以上の軍隊が1945年4月1日、イースターの日曜日に攻撃を開始することになった。1944年9月29日、B-29爆撃機は沖縄とその近くの島で最初の偵察飛行を行った。1944年10月10日には、ハルシー提督のおよそ200機の爆撃機が、沖縄の主要都市である那覇に5回にわたって空襲を行い、那覇の街はほぼ完全に壊滅した。アメリカの日本との戦争は、容赦なく日本の本土に近づいていった。

 1945年の3月中旬、1,300隻以上の艦船からなるの米艦隊が、海軍による爆撃のために沖縄沖で集まった。沖縄における軍事行動での最初の神風特攻は1945年3月18日に始まり、 3月21日、最初の自爆ロケット弾が、日本の一式陸攻爆撃機の下に取り付けられた。

 1945年4月1日に6万人の軍隊(海兵隊2師団と陸軍2師団)が、ほとんど反撃のない状態で上陸して進攻は始まった。そしてその日は一日中、今まで上陸作戦を援護するために行われたもの中で最も激しい海軍の集中砲火が続いた。「USSテネシー」、「メリーランド」、「ウェストヴァージニア」など、真珠湾攻撃で沈没を免れた戦艦を含む10隻の古い戦艦と、9隻のクルーザー、23隻の駆逐艦、護衛駆逐艦、および117隻のロケット砲艦が海岸近くに集結し、最初の24時間で3800トンの砲弾を沖縄に向けて発射した。 沖縄の人々は長い間、島を横断するひどい台風の中に身をおいてきたが、彼らは「鉄の暴風」(storm of steel)を経験したことはなかった。沖縄県民は島への進攻を「鉄の暴風」と呼んだ。8時30分に、第24軍団の第7と第96歩兵師団、および第3水陸両用軍団の第1と第6海兵師団は北谷・読谷海岸を横切った。最初の1時間で1万6000人の上陸部隊が反撃のない状態で上陸し、日暮れまでに6万人以上が上陸した。

 沖縄は10万以上の軍によって強力に守られていたが、日本軍は水際作戦を行わないことを選んだ。この4月1日の無血上陸は、連合軍の圧倒的な火力に対して海岸を防御すると発生する死傷者を出さないための、総合的な日本の戦略の一部であった。 縦深防御のシステムは特に島の南部で、牛島司令官の率いる日本の第32軍の10万人が、アメリカ軍の上陸部隊と海軍の艦隊の両方を危険な状態に置くような、延長された戦闘を行うことを可能にした。日本軍は連合軍の海軍と空軍の優れた能力を無効にしようとして、海岸から離れた高地の洞窟やトンネルに入った。

 戦闘は4つの段階で進んだ。1番目、東海岸への進軍(4月1~4日)。2番目、島の北部の(4月5~18日)。 3番目、離島の占領(4月10日~6月26日)。そして、4番目、4月06日に始まって6月21日まで続いた、地下に潜った第32軍の小部隊との戦闘。最初の3つの段階は穏やかな抵抗に遭っただけだったが、最後の段階は日本人がうまく洞窟に身を隠し、海軍の艦砲射撃が役に立たなくなったため、非常に困難なものとなった。

 4月6から7日かけて、大日本帝国のシンボルにちなんだ「菊水」と呼ばれる何百機もの神風特攻機の使用が始まった。沖縄戦の終わりまでに1465機の神風特攻機が九州から飛ばされ、30隻の米軍の艦船を沈め、164隻を破損した。日本軍は高速モーターボートに高性能爆弾を積んで米艦隊を攻撃させる計画を考案した。ボートは、レールに乗せて洞窟の中に引っぱりあげて隠された。しかし、この計画は実行されることはなかった。

 それまでに造られた中で最も大きい日本の戦艦「大和」が、軽巡洋艦「矢矧」と8隻の駆逐艦を伴って、1945年4月6日に航空機による援護なしで沖縄に派遣された。日本の艦隊はこのときまでに燃料の蓄えをひどく使い果たしていたため、「大和」は沖縄までの片道分の燃料だけを積んでいたと伝えられている。「大和」の任務は、沖縄本島に突撃、艦を座礁させて砲撃を行い、戦闘から脱落するまで戦うことだった。しかし、米軍の潜水艦「ハックルバック」は「大和」の動きを追跡して、空母に搭載された爆撃機に警告した。 それを受けたマーク・ミッチャー中将は4月7日の午前10時に空襲を開始した。

 「大和」への最初の爆撃は艦載機「ベニントン」によってなされた。空母「サンジャシント」の艦載機は爆弾と魚雷で駆逐艦「浜風」を沈めた。軽巡洋艦「矢矧」は爆弾の直撃を受けて沈んだ。次の2時間、日本軍は継続的な攻撃にさらされた。「大和」は2時間のうちに、12個の爆弾と7つの魚雷の命中を受け、最終的に爆発し撃沈した。共にいた3隻の駆逐艦もひどく破損していたので沈むしかなかった。また4隻の残っている駆逐艦も日本に戻ることはできなかった。「大和」の2747人の乗組員のうち、23人の将校と246人の下士官兵以外、全ての命が失われた。 「矢矧」は446人、「朝霜」は330人を失い、他の7隻の駆逐艦は391人の将校、乗組員を失った。日本軍の生存者はほとんどいなかった。米軍の損失は10機の航空機と12人の乗組員だった。そしてこれが太平洋戦争最後の日本軍の海での軍事行動だった。

 4月19日までに、バックナー中将率いる米第10軍の陸軍と海兵隊は、首里防衛線の外側の強化された前線で激しく戦った。この戦いは、始めの無血上陸とこれまでの数週間の急速な進軍とはまったく違ったものであった。首里の砦は、石灰岩の洞窟の奥深くに造られ、様々な種類の火器を持ち、相互に援護できる位置にあった。戦いが長引くに従って、アメリカ軍の死傷者数は増えた。約1600隻の艦船が敵の激しい空襲にさらされていたので、島を手に入れる過程での遅れは海軍司令官の間に大きな驚きを与えた。日本軍の攻撃で起きた損害のほとんどが、多くの航空機で恐ろしい神風攻撃を行う「天号作戦」によるものだった。

 シュガー・ローフ、チョコレート・ドロップ、コニカル・ヒル、ストローベリー・ヒル、シュガー・ヒルなどの作戦名で陸軍と海兵隊が首里城を強襲するたびに、米軍の損害は増えた。沖縄での戦闘の間に米軍は、片方は痛ましく、もう一方は喜ばしい、劇的な2つのニュースを知らされた。ひとつは4月12日のフランクリン・ルーズベルト大統領の死であり、もうひとつは5月8日のナチス・ドイツの降伏であった。

 5月の終わりまでには、死守されていた斜面と道路を、沼地に変えた雨季の雨が、戦術および医療の状況を悪化させた。地上の進軍は、負傷兵の後方への撤退を、泥沼や氾濫した道路に妨げられて軍隊が大いに苦戦した、第一次世界大戦の戦場に類似し始めた。軍隊は雨で水浸しになった、半分ごみ捨て場、半分墓地のようなところに住んだ。日本人の埋葬されていない死体が泥の中に沈んで腐り、有害なシチューのようになっていた。そのつるつるした斜面を滑り降りた者は誰でも、後でポケットがウジ虫でいっぱいであることを簡単に見つけることができた。

 首里防衛線に対する激しい攻撃は、牛島司令官に、最後の防衛線である南部の喜屋武半島への撤退を決断させた。彼の軍は5月23日の夜に移動し始めたが、米軍の進軍を遅らせ続けるために後衛部隊を残していくことを忘れなかった。移動することができないほど負傷した日本兵は致死量のモルヒネを注射されたか、または死ぬように単に置き去りにされた。6月の1週目までに、米軍は6万2548人を殺した一方、465人の敵軍だけしか捕らえていなかった。 それから戦闘終結までには激しい闘いに2週間と、包囲されたまま断固として抵抗を続ける部隊に対する、爆弾と火炎放射器を使った掃討作戦にさらに2週間かかった。6月23日から29日の間に行われたいわゆる掃討作戦の戦闘では敵の死者9000人と3800人の捕虜という結果を上げた。日本人の間で、自殺の発生率は戦闘の最後の時期に急上昇した。敵の死者に対する調査がそれを明らかにしたところによると、多くの人が降伏するよりむしろ手榴弾を抱いて、各個人の戦いを終わらせていた。牛島司令官は天皇に対する義務を果たしたと確信して6月16日に儀式的自殺(切腹)をした。

 沖縄戦を終わらせる降伏文書は、1945年9月7日に現在嘉手納空軍基地がある場所で調印された。沖縄で銃撃がやむずっと前に、戦闘部隊のすぐあとに続いて上陸した技術者や建設大隊が、沖縄本島を日本本土への計画された進攻のための主要な基地に作り変えていた。

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